ファンタジー小説『界境楼門』の魅力

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 スパイスさんのファンタジー小説『界境楼門』の魅力を、小説全体の流れや印象深い場面の感想を書くことによって語ります。感想文と呼ぶには理屈っぽくて、評論と呼ぶには非論理的ですが、それでも語ります。

ネタバレ注意

 『界境楼門』の「地上篇」「天の篇」「翔の篇」とその後の 2 編の短編のうち、一部の引用や内容を含みます。

『界境楼門』の紹介

 界境楼門』はスパイスさんのウェブサイト「Spice Organic」で読める長編ファンタジー小説で、現在までに「地上篇」「天の篇」「翔の篇」の各篇が完結し、二つの短編を挟んで「かさねの篇」の連載が始まっています。魔法使いの高校生 (物語開始時は小学生) の五十嵐正樹が、天上の聖獣たちと共に魔物と戦い、友人・家族との関係や恋愛に悩み成長しながら、魔法と魔物の本質に関わる謎を解き明かそうとする様子を描いています。

 僕が読み始めたのは、「天の篇」連載中の 2003 年でした。この小説を読もうと思ったきっかけは既に忘れてしまいましたが、たぶん暇つぶしにオンライン小説のポータルサイトを見ていて、紹介文を見て面白いかもと感じたのだと思います。「地上篇」 80 ページを一気に読みました。

 登場人物は魅力的で、しかもそれぞれの望みや悩みはとても現実的です。各場面の描写は必要十分なディテールを伝えて映像的で読みやすいです。スリルともどかしさとユーモアと爽快感があります。

 でも、この小説のすごいところは、それだけではありませんでした。

ミステリー小説のような魅力

 僕はファンタジー小説が好きです。僕にとってのファンタジー小説の魅力は、 (1) 非現実的でも矛盾を見せず、しかも興味深い世界が描かれることそのものと、 (2) 小説から現実性という制約を取り去ることによって人の感情など現実世界での事象がいっそう鮮明に描かれることの二つからなるようです。

 『界境楼門』の舞台となる世界は一見、現実世界に天上の聖獣と魔法と魔物という非現実的な要素を付け足しただけに見えます。僕は読み始めてすぐにこの世界に慣れて、作中世界の中で起きる事件を固唾を呑んで見守りました。その中で、出会いと成長、人の温もりと孤独、様々な登場人物の人の思惑と悩みが描かれます。読み進めていくにつれて、僕は魔法があって魔物がいる世界を当然のものとして受け入れてしまいました。

 そうやって作中世界に疑問を感じなくなった頃に、正樹が疑問を提示します。魔物はなぜ人を襲うのか。魔法はなぜ存在するのか。僕が「ファンタジー小説だから当然」と思っていたことが、次々と問い直されていきます。その問いは他の登場人物をはっとさせるだけでなく、僕を突き刺して衝撃を与えたのです。

 また、作中世界は一見現実世界によく似ているように見えて、少しだけ違います。ところが、その違いの理由が「ファンタジー小説だから」では済まないのなら、事態は深刻です。作中世界には根本的に現実世界と異なる点が何かあって、それが原因となって、聖獣、魔法、魔物といった存在が生じることになります。作者はみんなの見ている前で、世界という重しの下にある 1 枚のカードを差し替えるマジックのようなことをやってのけているのです。正樹たちが魔法と魔物の謎に迫るとき、必然的に読者も作中世界が現実世界と違う根本的な理由は何かという壮大な謎に迫ることになる……のかどうか知りませんが、こんなところでも僕は興奮を覚えています。

 よくあるファンタジー小説の魅力だけでない、深い衝撃と興奮を与えてくれることが、僕が数あるファンタジー小説の中でも『界境楼門』が好きな理由です。

印象深い場面 (天の篇 8 節より)

 強く印象に残っている場面の一つを紹介し、感想を書こうと思います。小説全体のあらすじを書いてもきっと出てこない、けれど突き刺すような痛みを忘れられない場面です。

 正樹は強い魔法の力を持つがゆえに裏切りを経験し、敵の攻撃を受け、意識を失った後、見知らぬ部屋のベッドで気が付きます。一方、周囲の人は突然瀕死の状態で現れた言葉の通じない少年をどう扱っていいか困ります。正樹は周囲の人を敵だと思っています。そして、次に目覚めたとき、正樹のそばには誰もいません。

 以下、天の篇 8 節より引用します。

脂汗をかいていた。さほど厚くないシーツ、どちらかというと冷えた白い空間。
風邪でもひいたのか、と思って、額の汗を甲でぬぐう。
喉がカラカラだった。目を転じると、氷が入ったガラスの大きな器、そしてガラスのコップがサイドテーブルの上に置かれている。

君は、水か。

問えば、ガラスの中から微かに答えが返ってきた―――ええそうよ、私は水。あなたが飲んでも大丈夫よ―――。

誰が毒味をするよりも、一番、精霊の答えが確かだ。
正樹は、上半身を起こした。この前、右腕につけられていた点滴は外されていた。腕をまくってみると、さほど痕は残っていない。今は、体のどこにもコードがつけられてはいないようだった。

腕を伸ばしてコップを取り、更に体をうんと伸ばして水差しを取ろうとすると、水差しの水がとんできた。綺麗にコップの中におさまってくれ、ついでに氷を一つ、落としてくれた。
ありがとう、と心の中でお礼をすると、水差しの中の水が跳ねた―――嬉しい、と。

 周囲の人は、正樹の手当てをし、起きたときに水を飲めるようベッドのそばに用意します。しかし、正樹は水を飲む前に水の精霊に「君は、水か」と問いかけます (これができるのは正樹が魔法使いだからです)。地上篇で正樹が水や風の精霊たちと戯れていた場面を嫌でも思い出します (地上篇 37 節)。「誰が毒味をするよりも、一番、精霊の答えが確かだ」。強大な魔法の力のために酷い裏切りに遭い、自分の魔法と精霊だけを信じることしかできなくなった正樹の深い孤独が、水の精霊の好意によっていっそう強調されます。

 正樹も、他の登場人物も、様々な痛みを越えて成長していき、それが感動を与えてくれます。まだまだ正樹の活躍から目を離せそうにありません。応援しています!

2006 年 12 月 1 日公開、 12 月 8 日要約文を修正。著者: fcp / このサイトについて