法に対する不信感

要約

 僕が何年間も抱いていた、法に対する素朴で漠然とした不信感の中身は、僕が悪いと感じることと法に触れる (と思っている) ことの間のギャップでした。

 このページでは、僕が中学生の頃 (1992〜1995 年) から約 10 年間もやもやと抱いていた、法に対する素朴な不信感を説明し、それがどう解消されたかを書きます。

 僕は法に関してまったくの素人であり、間違ったことを書くかもしれません。ここに書いてあることをご自分の考える材料にしていただくのは歓迎しますが、信じるのは勧めません。間違いのご指摘は歓迎いたします。

不信感の実体

 もやもやと抱いていたのだから、不信感が何からきているのかも理解していなかったのですが、今振り返ると、僕が悪いと感じることと法に触れる (と思っている) ことの間のギャップからきていたと思います。

Q1: 僕たちはみんな泳がされているだけ?

 いきなりですが、法律を破ったことがない人なんていませんよね。歩いているときに車が通らない交差点で赤信号なのに渡ったり、歩道を歩いていて角を曲がるときに建造物の敷地の一部を少し横切ったり。

 捕まった後で、「信号無視なんてみんなやってるじゃないか。僕だけ捕まえるなんて不公平だ」と言ってみても、法律違反であることには変わりません。捕まらないのは、単に運が良いからか、あるいは捕まえるメリットがないからというだけで、警察はその気になったら僕たちのことをいつでも捕まえられるのです。僕たちはみんな泳がされているだけ……当時の僕はそう思っていました。

Q2: 法は大企業の味方? ― テレホンカードの変造をめぐって

 僕が中学生だった頃、変造されたテレホンカード (考えてみると「テレホンカード」ってのも懐かしい響きですね)、通称「変造テレカ」が社会問題になっていました。「駅近くの路地裏にはイラン人が『十枚千円』と言いながら立っている」という噂を聞きました。僕は会ったことがありませんが、駅前で変造テレカの密売が行われていたのは事実だと思います (密売をしている人が全員イラン人だったとは思えませんけど)。有価証券偽造罪だったか偽造有価証券行使罪だったかで逮捕者も出ていました (蛇足: 現在は変造テレカの製造・販売・使用・所持は「支払用カード電磁的記録に関する罪」に該当しますが、当時はまだそんな罪の規定はありませんでした)。

 当時の僕は、なぜテレホンカードの変造を防げなかった NTT 側の自業自得ではなくテレホンカードを変造した側が悪いのか理解できませんでした。 NTT はテレホンカードを作って売ることで多大な利益を得たはずです。それで得られる利益を守るために、相応のコストをかけなければならないのは当然でしょう。コストをかければ変造をもっと難しくできるのに、それをしてこなかったため、変造されて使われたと、僕は理解しました。単に NTT が戦略を間違えたのを利用して利益を上げる人がいただけであって、警察が出てくる理由がないと思ったのです。 (ちなみに、ダイアル Q2 サービスの情報提供者になって、変造テレカで情報提供を受けまくって現金で利益を得る仕組みを聞いたときは、うまい方法だと感心したし、公衆電話からダイアル Q2 サービスを受けられるようにしていた NTT は馬鹿だと思いました。)

 法は大企業である NTT に味方しているのだ。そう当時の僕は思っていました。

 僕には警察に挑戦するためにあえて変造テレカを買う勇気も、興味本位で変造テレカを買う好奇心もありませんでした (あえてポジティブに言えば、変造テレカのようなよくわからないものにはなるべく関わらないというポリシーだったとも言えますが)。でも、頭の中では「それって本当は悪いことじゃないよなあ」と確信していたので、何かきっかけがあって関わっていたら、自分だけの力で止めることはできなかったと思います。

 その後、ネットワークの不正アクセスの事件を聞いても同じように思いました。サーバーのセキュリティーを守るのはサーバー管理者の役割なのに、それを怠ったから侵入されたのであって、自業自得ではないのかと。

不信感の解消

A1: 犯罪構成要件に該当しても違法とは限らない

 こちらは、話は簡単です。法のシステムは、明らかに悪くないことを違法とするほど愚かではありません。詳しくは、「違法性阻却事由」について調べてください。警察が黙認しているのではなく、警察が捕まえるべき対象ではないのです (というのが僕の理解です。あくまでも僕は法に関して素人であって、自分が理解したつもりのことを書いているだけということをお忘れなく。また、法律違反を推奨する意図はもちろんありません。)

A2: 法は何でないか

 これに対し、テレカの変造の問題は厄介です。テレカの変造は違法です。ある意味では、法が NTT に味方しているのです。では、やはり大企業と国は結託していて、全然悪くないことを悪いことに仕立て上げてぼろ儲けしているのでしょうか。

 そうとは言い切れません。どうして法がテレカの変造を禁じているかといえば、禁じないより禁じた方が社会全体として得である (と、少なくとも国 (国民と言い換えてもかまいません) が信じている) からです。

 テレカの変造を禁じなかったとしましょう。このとき、 NTT は相応のコストをかけて変造の難しいテレホンカードを開発するでしょう。そうすると、その分のコストは回収しなければならないので、電話代なり公衆電話のレンタル代なり何らかの値段を高くします。これでテレカの変造が技術的に防げるかもしれませんが、僕たちはそのために高い電話代を払うことになります。これは望ましくありません。

 以前の僕は、そんな考え方、絶対に認めなかったと思います。法というのは、「こうした方が得だから」なんて理由で作って良いものではないはず。絶対的な基準で良いことと悪いことをかっちり分けてくれるもののはず……。

 まさにこれこそが、 47th さんがブログ「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」で書かれている「『法』への幻想」 (intro)(1)(2)(3)(番外編) だったと思います。中学の頃の僕にそれを理解するのは (勉強しようと思いもしないことは学べるわけがないという意味で) とても無理でした。勉強不足と言われればそれまでです。

 僕の中の法に対する不信感は、自分の中で絶対に悪いと思うことと法によって違法とされることの間にギャップがあったことによります。法が絶対的な基準で世の中を善と悪に分けてくれるはず、という幻想を捨ててしまえば、おかしなことはありません。

 もちろん、法のすべてを社会のコスト・ベネフィットによって説明するべきだとは思いません。例えば、人を興味本位で殺すことが犯罪になる理由は、僕の中ではやはり「絶対的に悪いことだから」であって、それ以上の説明は僕には不要です。その意味で、悪いことと違法なことは重なるところがあります。でも、違法とされることのすべてが「絶対的に悪い」とは言えないからといって、法に幻滅する必要はないというのが、現時点での僕の整理です。

2006 年 11 月 11 日公開。著者: fcp / このサイトについて