ルールを守っていれば何を書いてもいいのか

要約

 僕はウィキペディアが信頼できる百科事典となることを願っていますが、個人に関する記述について、本人が読んだとき傷付いて消したいと思うようなことまで書いてほしいとは願っていません。ウィキペディアで個人に関する項目を本人が消すのを見て「ルールを守れ」などと言う人は、「信頼されるフリーの百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」というウィキペディアの目的をもう一度考え直してもらえればと思います。

初めに

 僕は人を傷付けることをしたくありません。傷付けたくないという願望を超えるほどの理由があればしますが。誰だってそうだろうと思います。ただ、何かに気を取られて、人を傷付けるということを見落としてしまうことはあります。言葉を発するのは特に注意が必要です。言った側が思わぬところで言われた側が傷付くことがよくあるからです。言われた側が傷付いたということを教えてくれたら、それはじっと考えるべき場面です。

 有名サイトでの記述は多くの人の目に触れるので、いっそうの注意が必要です。

 ウィキペディアには個人の項目が数多くあります。その中で、書かれている本人によって記述の一部が削除されるという事件がありました。詳しくは、ウィキペディアに関する意見交換の場所である「井戸端」での議論を参照してください。

 僕はウィキペディアの目的に賛同しています (僕のウィキペディアに関する気持ちは、「禁じ手」をどう防ぐかの最初の節で書きました)。ウィキペディアのガイドラインはさすがよく考えられていると思います。でも、今のガイドラインが絶対のルールだとは思いません。

ウィキペディアで個人に関する項目を本人が消すのを見て「ルールを守れ」などと言う人へ

注意

 以下の文章は、怒って書いたので、言葉が汚いし、他の部分以上に混乱しています。

 一事を見てすべてを知ったつもりになってはいけないのだろうけれど、はっきり言って、僕は怒った。

 お前ら、ウィキペディアに自分の項目があるのを知って、そこを見て、「本人です」と名乗って内容の一部を削除した人の痛みが理解できないのか?

 有名人は事実も虚偽も含めあちこちで良くも悪くも言われる。それにいちいち反応していたら身が持たない。それなのに、器の小さい奴だと思われる可能性があることも承知で、おそらく、削除しても履歴が残ることも知った上で、それでも「編集」のリンクをクリックして、記述の一部を削除した本人の気持ちが想像できないのか?

 「ウィキペディアでの削除にはルールがありますので従ってください」とか言っている、そこのウィキペディアン。そんなのすっ飛ばして削除してしまいたいくらい傷付いたんだってことがどうしてわからないんだ?

 記事を書いた側のことも考えろ、とあなたは言うかもしれない。自分が書いた文章を削除されるのだって傷付くのだ、と。うん、そうだろう。でも、書いた側と書かれた側の痛みを比較するとき、僕は書いた側の痛みには上限があると思うが、書かれた側の痛みは推し量れない。だから、記事を書いた側と書かれた側の痛みを比較するなら、僕は書いた側に同情する気にはなれない。

 そこのウィキペディアン、あなたは記事を書くときに、書かれている人がどう感じるか、少しでも考えたか? 相手は有名人だから、法律やウィキペディアのガイドラインに従っていれば何を書いてもいいと安易に考えなかったか? 僕は安易なことが悪いことだとは思わない。ルールさえ守れば毎回毎回難しいことを考えないで済む、というのはルールの存在意義の一部だと思うから。でも、もしそうなら、本人が削除したという新たな事実を前にしたとき、「自分は本当にルールを守っているのか」と「ルールを守っていればそれで良いのか」を考え直すべきだ。

 ウィキペディアン。お前らの目的は何だ? ウィキペディアのルールとやらに従って機械のように働くことが目的か? 「信頼されるフリーの百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」じゃなかったのか? 本人が傷付いて削除したくなるような記事の集まりのことを、信頼される百科事典と呼ぶのなら、そんなもの要らない。さっさと消えちまえ。

でも結論は出ないんですよね……

 以上で述べたように、僕は基本的には、人物記事に関して、記述されている本人の感情は尊重するべきだと思っています。でも、どの程度尊重するべきなのか (例えば本人が事実に反することの記載を願っている場合を考えてください) とか、人物記事ではないけれど別の記事の中での人物に関する記述についてはどうかとか、本人ではなく関係者の感情はどうなのかとか、線引きについて考え始めると結局のところ「こうすれば解決!」という結論は得られないなあ、と思います。

 人物記事の記述を見て本人が傷付く、という状況を考えると、とりあえず「名誉毀損」という言葉が思い浮かびます。そういえば、 2005 年 5 月から 4 ヶ月の間、「ジャーナリストの John Seigenthaler さんがケネディ大統領暗殺に関わっていた」という記述がウィキペディアに載りっ放しだったという事件もありました (Is Wikipedia safe from libel liability? (CNET)、その日本語抄訳「泣き寝入りしかないのか― Wikipedia の名誉棄損問題が投じた波紋」 (CNET Japan))。ウィキペディアあるいは項目編集者を法律的にどうこうできるかどうかは脇において、法律だったらまさか「ケースバイケースで考えましょう」でおしまいではなく何か書いてあるはずで、もうちょっと何かしっかりした基準があって、それが直接的に答えを与えてはくれなくても、何かの参考にはなるのではないでしょうか。ということで、名誉毀損について日本・アメリカ等の法律を調べてみたのですが (日本の名誉毀損罪日本の民法上の名誉毀損イギリス・アメリカ等の名誉毀損)……難しくてよくわかりませんでした (汗)。ただわかったのは、「人の名誉を不当に傷付けては駄目」という基本的な点は同じでも、「名誉を傷付ける」の定義や「不当に」の意味するところは国によって違うということです。そりゃそうだよなあ、すぱっと割り切れるものだったら苦労しないよなあ、と当たり前のことを思いました。

 ところで、「各国の名誉毀損の規定の違い」なんていかにも素人受けしそうな話なのに、ウェブで日本語で書いている人は見つかりませんでした (僕の検索の仕方が悪い可能性は十分ありますが)。どなたか素人にもわかるように各国の名誉毀損の比較をしてウェブで公開してくれたら、きっとはてなブックマークで「あとで読む」タグがたくさん付くのではないかと思うのですが、そんなの要りませんか、失礼しました。

 ということで、悪口雑言を書くだけ書いておいて、どうすればいいかという結論のない、よくある文章ができてきましたが、それでも人物の項目を執筆・編集しておいて、書かれた側の気持ちも考えずにウィキペディアのルールを金科玉条のように掲げるのは納得できません、と言い捨ててこの文章を終えます。

追記: 少し見直しました

 ウィキペディア英語版には「Ignore all rules」という公式方針があり、その記述が格好良いです。本文はなんと次の一文だけ。

If the rules prevent you from improving or maintaining Wikipedia, ignore them.

 僕の言いたいことがたった一文で断言されている! まあ、この文の前には「これはウィキペディア英語版の公式方針であって、百科事典の運営の基礎となる概念であって、長い伝統を持っていて、深く繊細な意味が込められている」だの何だのという前置きが付いていて、後ろには参照がいろいろ付いているのですが、それでも本文を一文で終わらせるというセンスは格好良いと思います。 improving or maintaining Wikipedia とはどういうことなのか等、いろいろ説明し始めると、それが「ルールを無視せよ」という言葉に付帯された条件のように機能してしまうのを危惧したのでしょう (なお、ウィキペディア日本語版でこれに対応するのは公式方針草案「ルールすべてを無視しなさい」ですが、一文で終わるという英語版の格好良さはなく、代わりに解釈の例などを付けてわかりやすさを目指しているように見えます。まあそれでもいいんですけど、僕はどちらかを選ぶなら英語版の格好良さと一文に込められた重みを選びたいです)。

 ルールなんてものは、目的を達成するためのただの道具でしかありません。よくできているルールは非常に便利ですが、どれだけ便利な道具でも万能ではありません。ウィキペディアのウィキペディアたるゆえんは、個々のルールなどではありません。参加者を尊重し合い、中立的な視点を重んじながら、検証可能な事実を記述することによって、信頼できるフリーな百科事典という目的に向かって進んでいくことこそが、ウィキペディアのウィキペディアたるゆえんだと思います。

 「Ignore all rules」という警句が書かれていることは、人は時としてルールを必要以上に重視して目的を見失いがちだということの表れでもあるでしょう。ウィキペディアに限らず、ルールを利用して何か行動・主張しようとするたびに思い出したい言葉です。

2006 年 12 月 10 日公開、 2007 年 1 月 27 日最終更新。著者: fcp / このサイトについて